秩父34ヶ所観音霊場とは埼玉県秩父市、秩父郡横瀬町、秩父郡皆野町、秩父郡小鹿野町に点在する34の観音信仰霊場の総称で、西国33ヶ所、坂東33ヶ所とあわせて日本百観音といい、その結願(けちがん)は秩父34ヶ所三十四番札所の水潜寺です。
結願した後は長野の善光寺に参拝に行くのが慣例となっています。
この記事に書いてあるコト
百観音巡礼とは
因みに、西国33ヶ所は近畿2府4県と岐阜県に点在する33ヶ所、坂東33ヶ所は神奈川県、埼玉県、東京都、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県に点在する33ヶ所の霊場です。
室町時代になるとこちらに紹介をしている秩父に「秩父三十四箇所」も創建されました。西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」というようになり、百観音巡礼をする修験者なども増加した。
2014年の午歳総開帳
札所の本尊は、通常秘仏として厨子に納められており人目に触れることはありませんが、午歳総開帳といい、十二年に一度、午歳に扉が開かれます。
これは馬(午)が観音様の従者であることから、秩父札所の開創が文暦元年の甲午歳であったから、などという説があります。
平成26年は甲午歳で、総開帳の年です。
札所のはじまり
秩父札所の始まりについては諸説あるようですが、代表的なものは文暦元年甲午歳3月18日説とされています。
それは『新編武蔵風土気稿』および『秩父郡札所の縁起』に記述されている内容によるもので、閻魔王、倶生神、花山法皇、性空上人、春日開山医王上人、白河法皇、長谷徳道上人、良忠僧都、通観法印、善光寺如来、妙見大菩薩、蔵王権現、熊野権現の十三権者が秩父の魔を破り巡礼したのが起こりと考えられます。
この伝説は500年以上もの間、人々に語り継がれてきました。
また、現在も残る最古の資料『長享の番付』によると、札所33ヶ所の番付が記されています。
末尾に「長享二年戌甲五月二日」とあることから、少なくともこの時代には秩父札所は今より一つ少ない33ヶ所だったようです。
江戸時代に入ると修験者や修行僧に限らず一般庶民も巡礼をするようになります。
案内書や指南書、道中記など、いわばガイドブックなるものが刊行され、道中には道しるべとなる巡礼石が造立され、霊場巡り、お遍路が大流行したようです。
33ヶ所から34ヶ所になったのはこの時代ではないかと考えられています。
秩父34ヶ所の歴史
秩父34ヶ所観音霊場の巡礼は、文暦元年(1234年)、閻魔王、倶生神、花山法王、性空上人、春日開山医王上人、白河法王、長谷徳道上人、良忠僧都、通観法印、善光寺如来、妙見大菩薩、蔵王権現、熊野権現の十三の権者が秩父の魔を破り巡礼したのが始まりとされています。
最初は一つ欠けた33ヶ所でしたが、途中大棚観音も加わり現在の34ヶ所となったようです。
これは現存する法性寺収蔵の資料『長享二年秩父観音札所番付』に33ヶ所が記されていることでも分ります。
もっぱら修験者が巡礼していたものが、江戸時代に入ると民間の間でも霊場巡礼が流行します。
日本百観音のみならず、四国88ヶ所なども江戸から向かう人々が多くいました。
江戸中期の頃から総開帳や江戸での出開帳が見られるようになります。
総開帳と甲午歳
札所の本尊である観音像は、通常は秘仏として厨子に納められており、人の目に触れることはありません。
厨子の扉が開けられるのは十二年に一度、午歳です。
これを午歳総開帳といいます。
なぜ午歳なのかという理由については、馬(=午)は観音様の従者であるからという説や、秩父霊場の開創が文暦元年(1234年)甲午歳であるから、といった説などがあります。
特に平成二十六年(2014年)は開基の文暦元年から十三回目の甲午歳となり、六十年に一度の特別な開帳年です。
総開帳では厨子の扉を開け、観音様の手に紐をつなぎ、その紐を五色の布に結びます。
本尊前に祈願塔を立て、そこに観音様の手とつながったお手綱を結びます。
お手綱と手をつなぐことで観音様との縁がつながります。
秩父鉄道からは午歳総開帳に伴い、しおりタイプの記念乗車券が発売されました。